チャレンジ石垣島は、世界で働く人たちを受け入れるワーケーション施設であり、イベントスペースを設けた石垣島最大規模のテレワーク施設です。
島内外の地域や世代を超えた人々がつながって、島の魅力や新しい価値観に触れながら様々なプロジェクトにチャレンジできる、まさに沖縄のチャンプルー文化を体現する石垣島の発信拠点。
高速WiFi/電源/各種機材/ワーキングスペース・会議室/イベントスペース/フードスペースなど、快適に仕事のできる環境を整備しました。
人と、島と、地域につながる日本最南端のイベント&コワーキングスペースです。
昔から形を変えながら様々な“チャレンジ”が溢れていたこの場所。はじまりは、「興南商会」という小さな会社から。70年に渡り変化した登野城510番地の歴史をご紹介します。
チャレンジがある登野城510番地。「興南商会」そして「ホームセンターチャレンジ」と、70年もの間、たくさんのものや人が集う島の経済の中心地としてあり続けました。
チャレンジの前身である「興南商会」は、故・上原秀夫(うえはらひでお)氏が戦後に台湾で習得した製油技術を持ち帰り、昭和21年にここ石垣島で設立されました。
「食用油の製油から始まった興南商会。いろんなものを買って、いろんなものを作って、いろんなものを売った。島の人々の生活拠点であり経済の中心だったよ。」 そう語るのは上原恵子(うえはらけいこ)さん。上原秀夫氏の息子である上原秀人(うえはらひでと)さんと、興南商会の長い歴史を作り上げたチャレンジの大家さんです。
恵子さんによると、義父にあたる上原秀夫さんはとにかくなんでもやってみる人だったといいます。台湾でその技術を手に入れた製油にはじまり、葉煙草のきざみ業や、製粉、でん粉の製造、スクラップ業など。貿易業を開業してからは、落花生や貝殻類、海藻類の出荷などもされていました。 とにかく島の経済を回すために、さまざまな商売に挑戦をしていた興南照会は、魚の骨までも買い取り、粉砕して貿易業の船に乗せたそうです。島の働きと、島の人々の生活を支えてる中心地となりました。
そんな中、興南商会の経営が息子の上原秀人さんにうつると、興南商会は時代とともに形を変え始めた。毎朝起きると、銀行や知人のお店などに出向きとにかくいろんな人との対話を繰り返した秀人さん。
「住宅建築ブームとともに高まるのは、“住まいづくり”への関心だ。」
そう時代の流れを読みとった秀人さんは、それまで沖縄本島や県外から時間もお金もかけて取り寄せていたような日曜大工のお店をオープン。これが、ホームセンターチャレンジの前身となる「ホームセンター興南」です。日用雑貨や工具、金物類や園芸用品などを扱い、子どもから大人まで、島の人たちが楽しく出入りをする島の生活を支えるホームセンターでした。
ホームセンター興南時代、全国の商社マンが恵子さんの元へ商品をもって訪れたそうです。ある日、沖縄本島の取引先から「石垣島でホームセンターを開店したい」という相談を受けました。それを聞き、誰か引き継いでくれるひとがいればと考えていた秀人さんと恵子さんは、同店を引き渡すことを決めました。閉店セールでは、多くの島の人々が駆けつけ閉店を寂しがりながらも、長い間人々の暮らしを支え続けた興南商会、そしてホームセンター興南へたくさんの感謝の言葉が集まりました。
そうしてホームセンター興南は「ホームセンターチャレンジ」へと名前を変え、平成の石垣島の住まいづくりの拠点であり続けました。興南商会の思いを引き継ぎ、交差点に面した壁面には今でも「興南商会」の文字は残されたままです。
平成30年、その歴史に幕をおろしたホームセンターチャレンジ。70年にも渡り、経済の中心、商いの中心、住まいの中心だった登野城510番地は、今新たな幕開けを迎えようとしています。